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『ゴーストライター』ワークショップ・シアター

blanClass Anthology#3 on TPAM Fringe 2018

 

自身の"終焉の時"を想像しテキストに書き起こした参加者が、カメラの前でテキストを朗読する。

同時に閉ざされた部屋にいる女優が、朗読の声を頼りに”それぞれの終焉の時”を演じる。

生者の想像の中の“終焉の時”は、次第に“死”の多像化/無効化の試みとなっていく。

★TPAM fringe 2018 Participation work
Play|Reiko Takayama [The Ghost Writer] 
Since early 2017, I began making theatrical work to those who are no longer here. But by the end of the year, I also disappeared completely. Even though I’m gone, I’m well and still making theatre pieces. This performance is about the time ‘when I disappeared’ and ‘when you disappeared.’ To those who are not present and also who are still here; I welcome all of you equally!

 

構成・出演高山玲子

翻訳・出演荒木悠

撮影・編集福井琢也

衣装高橋 愛(suzuki takayuki)

​日程 2018年2月

会場 blanClass http://blanclass.com/

Reiko Takayama Yu Araki + participants
Takuya Fukui

『ゴーストライター』

ー わたしたちは、終焉を上演するものたちです。
参加者による、"ここから消えた時"の話しを聞き、テキストにし(荒木)、上演し(高山)、撮影し(福井)、作品にします。ー

( 死は、本人が語る事が出来ない。残されたものによる死、その記憶は、いったい誰のものだろう? )

どうしてこんな事をするのかと言われると、わからないのだけど、わたしはもうずっと、居る人と居ない人の違いがわからない。居ないのは、きっと居ないのだけど、会えないから、でも居ない人も居るんじゃないかと、居る場所で、とても居る、今ここにも、わたしたちと同じように、営み、悩み、遊び、泣いて、笑って、怒って、居るんじゃないかなと、思う。思う事が、居ない人を居ないものにしないことに繋がる、わたしの中で、それは居ることである。

居ると思い込んでいるわたしたちは、なぜ、自分が居ると言い切れるのか、わたしは自分が本当に居るものなのか、それすらもたまに疑わしい、ただ、確かに居るんだけど、今は、でも居ないものになった時、わたしはどこに居るのか、わたしが居ないものになった時、みんなはわたしを、居ないものにするだろうか、もう居ないと言うだろうか、願わくば、わたしが居なくなった時、わたしのことを、どこかに居ると、どこかで今も、営んでいると、今日も変わらず、居ると、思っていて欲しい、なんて思ったりする。居ることと、居ないこと、その境界線はそんなにくっきりと違わない、かもしれない、その線を、少し、ぼかしたい、一生懸命、消しゴムで消してみたい。

居たり、居なかったり、行ったり、来たり、出来たらいい、会えたらいい、想像してみること、居ない人が居る場所を、わたしが居る場所が全てではない。あっちもこっちも、全ては今ここにある、と。

【解 説】

例えば〔私が死んだあと、わたしが残した作品がある、それをわたしの遺作として上演が行われたとしたら、わたしは、どんな気持ちでそれを見るだろうか〕といった素朴な疑問からこの作品は生まれた。

具体的には、来場者に「100年年表」の作成というワークショップを行った。自身が生まれてから、100年間の出来事をメモのように書き出していく、当然ながら、いつしか、年表は自身の年齢を追い越し、未来の、願望なのか、切望なのか、絶望なのかわからない、それぞれの終焉へと結びつく。

次に、あなたはの終焉について、あなたはいつ、どこで、どんな風に、だれがそばに居たか、最後の言葉は何か、短いテキストを書き起こす。

そのテキストを一人づつカメラの前で朗読する。カメラの映像は会場にライブ配信されている。その横には、その場には居ない女優が、その朗読を聞きながら、即興的に終焉を上演を行う映像が流れる。

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